記聞(気分) 「啐啄同時~プロフェッショナル~」
数年前から思いを寄せていた県外の料理屋に、先日、ようやく出向くことがかなった。カウンターだけの小さなお店だが、足を踏み入れた瞬間に店主の客をもてなす気迫を感じた。飾り立てる装飾や不必要なものは全く配備されず、隅々まで塵埃ひとつ無い掃除の行き届いた整然とした佇まいだった。初めて訪れた私は、客でありながら妙な緊張感さえ感じた。
真っ先に目に入ったのは、カウンター越しのガラス窓の向こうに見える一枝の寒梅。坪庭に宙吊りに掛けられた銅製の壷に凛と生けられていた。真っ直ぐに伸びる枝には、今にも咲きそうに膨れ上がったつぼみが数輪、カウンターで料理を待つ私に懸命な生命力を訴えていた。窓枠が額縁役をし、まるで絵画のようだった。包丁を握る店主に尋ねたところ、店主自らが生けたと言う。少し照れながら「生け花の心得はないから。」と答えるが、その寒梅の素直な枝ぶり、生け方から彼の実直な人間性を窺い知れた。
手許の俎板の上に載せた鮮度の高い食材に丁寧に包丁を入れる店主の様子は圧巻であった。一品目の料理が出され、続く料理も客の会話を決して妨げず、かと言って箸を置く時間が長いわけでもなく、心地よいペースで運ばれてきた。客の心に謙虚に耳を傾け、まるで客の心に寄り添うように。もちろん料理の内容は、予約待ち一年の名店とあって期待通り、「流石」の一言に尽きた。
カウンターを埋め尽くしていた馴染み客たちも席を後にし、最後に残された私は店主と話しこんだ。彼の年齢は44歳、私と同年齢であることに驚いた。何年経っても客の前ではいつも緊張すると語る。そして、自身の師匠にもらった一言が人生の素地だと言い「啐啄同時」と力強く書かれた掛け軸を指差してみせた。「啐啄同時」とは、禅宗用語で機を得て師家と弟子が相応することを言う。「啐」は鶏卵が孵化しようとする時殻の中でつつく音こと、「啄」は母鶏が外から殻を噛み破ることだ。
彼にとって「啐啄同時」は、謙虚に客の心に耳を傾けることで、客の求めているものは何かを察知し、客の心に寄り添いながら、絶妙のタイミングと渾身の料理でもてなすことではないだろうか。
「もてなす」とは、「相手を思ってなす」と聞いたことがあるが、無駄の省かれた店内、凛と生けられた寒梅、洗練された料理、客に対する心配りなど、客が来店する前から客を思いながらなすべき準備を整え、客が店を後にするまでの間、客の求める水準以上のサービスを緊張感をもって提供する、その姿勢にプロフェッショナルを感じた。
私たち“プロフェッショナル”は、「啐(お客様のニーズ)」を聞き逃さぬように常に謙虚な気持ちで受け止め、「啄(そのニーズに応対をすること)」が、絶妙なタイミングで仕掛けられなければならない。そして、その商品やサービス、アイデアは、お客様の求める水準を超えるサプライズなものを用意できるよう、常に、緊張感をもって臨むべきではないだろうか。
“プロフェッショナル”ゆえに、「聞こえるもの」、「見えるもの」、「感じるもの」を逃さないこと、“プロフェッショナル”ゆえに提供できる感動サービス、それは“プロフェッショナル”としての「謙虚さ」と「緊張感」に裏付けされる。
私たちは、日々、接客や提案の場面で、お客様から専門知識や豊富な経験に基づく判断力を求められ、鋭く質問を投げかけられる。あいまいな知識でしどろもどろに答え、お客様を不安にさせていないか。経験不足を理由に意思決定を先送りしたり、他人に転嫁したりしていないか。そういう態度からは、お客様は、私たちに“プロフェッショナル”としての魂も能力も、微塵も感じ取ることはできない。つまり、お客様のご期待通りに、いや、それ以上に満足させることはできない。ゆえに、フェアリー・テイルのスタッフ一人ひとりが、日々の研鑽を重ねたうえで、「謙虚に」お客様の“思い”に耳を傾け、「緊張感」をもった対応に、日々努めていただきたい。それでこそ、お客様から“プロフェッショナル”として評価され、真の信頼が得られるのである。
まさに、あの料理屋の店主が教えてくれた「啐啄同時」は、職種は異なるが、私たちにとっても、お客様に対する“プロフェッショナル”としての心得を示していると言えるのではないか。
以上
平成29年2月3日
藤田 徳子
※上記内容は、フェアリー・テイルのスタッフ宛に私が書き留めている内容でありますが、
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