記聞(気分)「銀杏の実から弘法大師~一を聞いて百を知る~」
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今年は夏が長く、秋が訪れるのかとふと心配になることもあったが、
首を長くして待った秋はあっという間に過ぎ去り、冬支度を整える前に冬がやってきた。
急激に寒くなって、深山の木々も街路樹も、赤、黄、橙など彩鮮やかに色づき始めた。
今週末には紅葉狩りにも出かけたい時期だ。
「夏が長いと紅葉が美しくないのではないか」と言われるが、
「今年は!?」「去年は!?」と評する前に、
ぜひとも、自然の様子を直に感じていただきたい。
そんな四季の移り変わりの寸暇に「侘び」「寂び」を重んじられる、
日本人の審美眼を受け継げたことを、誇りに感じることだと思う。
私がほぼ毎日訪れる栗林公園では、
木々の多くが、松を代表とする常緑樹で、年中を通して緑が保たれている。
この時期、ひと際、目を見張るのが、「大銀杏(大イチョウ)」だ。
銀杏(イチョウ)は、世界最古の樹木の一つと言われ、
寿命も長いが、この栗林公園の「大銀杏(大イチョウ)」の樹齢は、50年以上とも言われている。
特に、銀杏(イチョウ)の葉が若草色の間は、立派に整えられた松などに取り紛れて、
決して目立った存在ではないが、黄金色に染まったこの時期は、
栗林公園の東門そばに控える「大銀杏(イチョウ)」が、
外出先から帰宅した家族を玄関で出迎える母のように見える。
先日、この「大銀杏(大イチョウ)」の木の下で、
「銀杏(ぎんなん)」を一粒拾った。
私は、「銀杏(ぎんなん)」が、
大きなお母さんの腕から零れ落ちた甘えん坊の末っ子のように思えて、
妙に愛おしくなり、思わず拾ってコートのポケットに忍ばせて帰った。
幼い頃、通学路で「木の実」を拾ったことを思い出した。
その「木の実」は若干の臭気があり、子ども心に恐る恐る家に持ち帰ったところ、
祖父が、その木の実が「銀杏(ぎんなん)」で「銀杏(いちょう)の木」の実であると教えてくれた。
硬い殻を割り薄い皮を剥くと、茶碗蒸しや天ぷらにと、食用になることも教わった。
すぐさまもう一度通学路に戻り、袋いっぱいに「ぎんなん」の実を集めた。
その夜、自分で拾った「ぎんなん」の天ぷらが食卓に並ぶと、
誇らしげだったことを覚えている。
祖父が木を「銀杏(いちょう)」と、実を「銀杏(ぎんなん)」と呼ぶことが不思議だった。
探究心から図鑑を開くと、一般的にそのように表現されると書かれていた。
「いちょう」の木は、中国から弘法大師空海が持ち込んだことも知り、
今しがた自分が食した「ぎんなん」に歴史のロマンを感じた。
同時に自分が歴史線上にいることに胸が躍った。
実のなる木には「雄株」と「雌株」があることを知ったのもこの時だった。
「ぎんなん」は、雌株のみになり雄株の花粉が1キロメートル以上も離れた雌株にまで受粉するという。
自然の偉大さに興味を深く抱いた。
雄株と雌株の違いは葉の形で区別できるとも知った私は、
翌朝早く、人に踏まれる前の落ち葉を拾いに出かけた。
図鑑で見た通り、綺麗な扇型をした葉(雌株)と
扇の真ん中に大きく切り込みが入った葉(雄株)と2種類見つけた。
街路に落ちた木の実を拾ったわずかな興味心が探究心に火を付け、
冒険心から行動し幼い習得心が掻き立たれた。
「ぎんなん」を握り締め図鑑を開き「いちょう」の葉を集めた、
一連の実体験から得た知識の価値は計り知れない。
「知らないこと」を知りたい、「わからないこと」をわかりたい、もっともっと、
時には背伸びするほどのこどもの旺盛な好奇心。
固定概念を持たず既成事実に捉われず、自分の目の前の物事だけを信じる純真な眼差し。
「自分が正しい」「自分の考え方はこうだ」と
人の話を真剣に聞く態度などについて、わが身を振り返ってみる。
おとなになった私たちはどうだろうか。
純粋に興味心や探究心、習得心などを
四方八方に向けることは出来ているだろうか。
クライアントからすると、なんでもないことを話されているのかもしれません、
また、時には「藤田、なんでそんなことを尋ねるのか?」と思われることもあるかもしれません。
クライアントから何を聞いて何に表現するか?!
それこそ、プロデューサー藤田が大切に考える『プロデュース』!!
お客様に対する飽く無き探究心とまごころ。
『フェアリー・テイルマジック 魔法のヒアリング』を基に出来上がります。
「一を聞いて百を知る」プロデューサー藤田は、常にそう心構えてお客様と向き合っています。
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